精子提供について海外の記事を読むと、日本とはずいぶん様子が違うことに気づきます。ドナーの身長や職業がカタログのように並んでいたり、生まれた子どもが18歳になったらドナーの名前を知れると書かれていたり。「なぜ日本ではそうなっていないのか」と不思議に思った方も多いはずです。
結論から言うと、国ごとの違いは「匿名の提供を認めるか」「子どもに情報を開示するか」「1人のドナーから何人まで生まれてよいか」という3つの軸でほぼ説明がつきます。この3つを頭に入れておけば、どの国の話を読んでも位置づけが分かります。
イギリスとスウェーデンは匿名提供を法律で認めていません。デンマークは匿名と非匿名を選べる仕組みで、世界最大級の輸出国になりました。アメリカは連邦レベルの規制がなく、事業者の方針にゆだねられています。日本は、この3つのどれとも違い、包括的な法律そのものが存在しない状態にあります。
世界の違いは3つの軸で読める
国ごとの制度を全部覚える必要はありません。次の3つを確認するだけで、その国がどんな考え方に立っているかが見えてきます。
軸1:匿名の提供を認めるか
ドナーが誰なのかを、生まれた子どもに対して永久に伏せてよいのかという問題です。かつては世界中で匿名が当たり前でした。提供する側の心理的な負担を減らし、家族関係を複雑にしないためだと説明されてきました。しかし1980年代以降、「子どもには自分の出自を知る権利がある」という考え方が力を持ち、匿名を認めない国が現れます。
軸2:子どもが情報を請求できるか、何歳から請求できるか
匿名を認めない国では、子どもが一定の年齢に達したときに、公的な機関を通じてドナーの情報を請求できる仕組みを整えています。ここで重要なのは、情報が保管されていなければ請求のしようがないという点です。制度の中身は「誰が、何を、何年間保管するか」に集約されます。
軸3:1人のドナーから何人まで生まれてよいか
あまり日本では話題になりませんが、海外では真剣に議論されているテーマです。1人のドナーから多くの子どもが生まれると、その子どもたちが互いを知らないまま出会う可能性が生じます。また、遺伝性の疾患が見つかったときに影響を受ける人数も増えます。そのため多くの国が、1人のドナーから生まれる子どもや家族の数に上限を設けています。
イギリス|2005年に匿名提供をやめた国
イギリスは、精子・卵子の提供を国の機関が一元的に管理している点で、世界でもっとも制度化が進んだ国のひとつです。ヒト受精・胚機構(HFEA)という公的機関が、認可した施設での提供を登録・管理しています。
2005年4月1日という区切り
イギリスでは、2005年4月1日から匿名での精子・卵子・胚の提供ができなくなりました。この日以降に提供されたドナーから生まれた人は、18歳になるとHFEAに対して、ドナーの氏名、生年月日、出生地と出生国、最後に把握されている住所を請求できます。また16歳になると、身元が特定されない範囲の情報(身体的特徴など)を請求できます。
2005年4月以降に提供を受けて生まれた最初の世代が、2023年に18歳を迎えました。HFEAは、今後この請求が本格的に増えていくとして、当時のドナーに連絡先の更新を呼びかけています。つまりイギリスの制度は、いま実際に運用の段階に入っているところです。
2005年より前に生まれた人はどうなるか
2005年3月以前の提供については、ドナー自身が「身元を明かしてもよい」と登録し直さない限り、情報は開示されません。法律を変えても、過去にさかのぼって適用することはできないためです。制度が変わっても、それ以前に生まれた人の状況は変わらない。この点は、日本で今後制度を考えるときにも重要な示唆になります。
デンマーク|選べる仕組みで世界最大級の輸出国に
人口600万人に満たない北欧の小国が、精子の国際的な供給地になっています。その理由は、制度設計の柔軟さにあります。
匿名と非匿名を選べる
デンマークでは2006年より前は匿名の提供しか認められていませんでしたが、その後、非匿名の提供が可能になりました。当初は私的なクリニックに限られていましたが、2013年以降は公立の病院でも非匿名の提供が扱えるようになっています。提供する側も、受ける側も、匿名か非匿名かを選べるという点が、この国の制度の特徴です。
人数の上限をめぐる論点
デンマーク国内では、1人のドナーから生まれる子どもの数に上限が設けられています。ただし、この上限は国内での利用を対象としたものです。デンマークの精子バンクは世界各国に精子を輸出しており、輸出先まで含めた総数については、事業者が自主的に上限を設けていない場合があります。この点については、北欧の倫理委員会が国際的な上限を設けるよう求める声明を出すなど、議論が続いています。
「デンマークには上限があるから安心」と単純に読まないでください。国内の上限と、世界全体での実際の出生数は別の話です。バンクを選ぶときは、そのバンク自身が上限を設けているかを確認してください。これは公的な制度ではなく、事業者の方針の問題です。
アメリカ|市場にゆだねられた仕組み
アメリカは、精子バンクの数も選択肢の多さも世界有数ですが、制度のあり方はヨーロッパとまったく異なります。
連邦レベルで、1人のドナーから生まれる子どもの数を制限する法律はありません。ドナーの匿名性についても、法律で一律に定められているわけではなく、各事業者が自らの方針として匿名・非匿名の区分を設けています。学会が推奨するガイドラインは存在しますが、法的な強制力を持つものではありません。
その結果、アメリカでは選択肢の幅が非常に広くなりました。ドナーの写真、声の録音、エッセイ、家族の病歴まで公開されているバンクもあります。一方で、記録の保管期間や開示の仕組みが事業者ごとに違うため、「この事業者がなくなったら記録はどうなるのか」という不安が残ります。自由度の高さと、制度としての保証の薄さが、そのまま裏表になっている国だと言えます。
スウェーデン|世界で最初に匿名をやめた国
子どもが自分の出自を知る権利を法律で保障するという発想を、世界で最初に制度化したのはスウェーデンです。1980年代に、提供で生まれた子どもが一定の年齢に達したときにドナーの身元を知ることができる仕組みを導入しました。イギリスをはじめとする各国の制度は、この考え方の影響を受けています。
この転換の背景には、養子縁組の分野で積み重ねられてきた知見があります。自分の出自を知らないまま育った人が、思春期以降に強い葛藤を抱えることがあると分かってきたのです。精子提供で生まれた子どもにも同じことが当てはまるのではないか。その問いが、匿名を前提にした制度を見直す出発点になりました。
日本|なぜこれほど事情が違うのか
ここまで見てきた国々と比べると、日本の状況は特異です。理由は単純で、この分野を包括的に規律する法律が存在しないためです。
法律ではなく学会の見解で運用されてきた
日本では、1940年代後半に大学病院で非配偶者間人工授精が始まって以来、実施の条件は日本産科婦人科学会の見解によって定められてきました。学会の見解は会員である医師を拘束しますが、法律ではありません。そのため、学会に登録していない施設や、医療機関を通さない個人間のやりとりには及びません。
成立した法律が扱う範囲は限られている
2020年に、提供を受けて生まれた子の親子関係を定めた民法の特例法が成立しました。ただしこの法律が定めているのは、出産した女性が母であること、そして夫が同意していた場合に子との親子関係を否認できないことの2点です。ドナーの要件や、子どもが出自を知る仕組みは含まれていません。
包括的な法案は成立していない
第三者の精子・卵子を用いる医療のルールを定める「特定生殖補助医療に関する法律案」が2025年2月に参議院へ提出されましたが、実質的な審議に入らないまま廃案となりました。対象を法律婚の夫婦に限る内容などについて、当事者団体や日本弁護士連合会から慎重な検討を求める意見が出されています。
その結果、日本では次のような状態が続いています。情報の保管について法律の定めがないため、記録が残るかどうかは実施した施設や当事者の判断に委ねられる。1人のドナーから何人生まれるかについても、把握する仕組みがない。海外の記事を読んで「日本ではどうなっているのだろう」と調べても答えが見つからないのは、答えを決めた制度がまだないからです。
一覧で比べる主要国の制度
ここまでの内容を表にまとめます。制度は改正されることがあるため、実際に検討される際は各国の公的機関の最新情報をご確認ください。
| 国 | 匿名提供 | 子どもへの開示 | 管理する主体 |
|---|---|---|---|
| イギリス | 2005年4月以降は不可 | 18歳で身元情報を請求できる | 公的機関(HFEA)が登録を管理 |
| スウェーデン | 認められていない | 一定年齢で身元を知れる | 公的な制度として整備 |
| デンマーク | 匿名・非匿名を選べる | 非匿名を選んだ場合に限る | 国の規制+事業者の方針 |
| アメリカ | 認められている | 事業者の方針次第 | 事業者の自主的な運用が中心 |
| 日本 | 事実上、匿名が中心 | 制度化されていない | 学会の見解と施設の判断 |
この違いは、日本の利用者にとって何を意味するか
海外の制度を知ることは、単なる知識の問題ではありません。日本で精子提供を検討する人の判断に、直接つながる論点が3つあります。
1. 記録は自動的には残らない
イギリスのように公的機関が記録を保管する仕組みが、日本にはありません。個人間の提供であればなおさらです。将来お子さんが自分の出自を知りたいと言ったときに答えられるかどうかは、いま記録を残しておくかどうかで決まります。提供者の氏名、連絡先、面談したときの様子、検査結果の写し。こうしたものを自分で保管しておくこと以外に、方法がないのが現状です。
2. 海外バンクを使う場合は「どの国の制度か」を確認する
海外の精子バンクを利用する場合、そのバンクがどの国の制度のもとで運営されているかによって、将来お子さんが得られる情報の量が変わります。非匿名のドナーを選べるバンクであれば、開示に同意しているドナーを選ぶという選択肢があります。この判断は、提供を受ける時点でしかできません。
3. 上限人数の考え方は日本ではまだ働いていない
1人のドナーから何人の子どもが生まれているかを把握する仕組みが日本にはありません。個人間の提供では、提供者本人の申告以外に確認する手段がないのが実情です。ドナーを選ぶ際に、これまでの提供回数や人数を尋ねておくことには意味があります。
よくある質問
匿名を廃止した直接の理由は、提供で生まれた人が自分の出自を知る権利を保障すべきだという考え方が、政策として採用されたためです。制度変更にあたっては「ドナーが減るのではないか」という懸念が実際に議論されました。匿名でなくなることで提供をためらう人が出るのは自然な予想です。一方で、匿名を廃止した国では、提供する動機そのものが変わり、身元が明かされることを前提に協力する人が集まるようになったという指摘もあります。いずれにせよ、ドナーの数と子どもの権利のどちらを優先するかという価値判断が、制度の分かれ目になっています。
非匿名のドナーを選べば、少なくとも「情報が保管されている」という状態はつくれます。ただし、その情報を実際に請求する場面では、そのバンクが存続していること、請求の手続きが日本からでも行えることが前提になります。数十年先の話であることを考えると、バンク側の仕組みだけに頼るのではなく、提供を受けた時点の資料をご自身の手元にも残しておくことをおすすめします。契約書、ドナーのプロフィール、購入した記録。これらは、制度がどうであれあなたの手元に残せるものです。
その方向で議論が進んできたことは事実です。第三者の精子・卵子を用いる医療について、情報の保管と開示の仕組みを定めようとする法案が国会に提出された経緯があります。ただし、この法案は審議入りしないまま廃案となりました。対象を法律婚の夫婦に限る点や、ドナーを特定できる情報の開示がドナー側の意向に左右される点について、当事者や法律家から異論が出されています。制度がいつ、どのような形で整うのかを予測することはできません。だからこそ、いま検討している方は「制度が整うのを待つ」のではなく、自分の手元で記録を残す前提で進めるほうが現実的です。
ドナーへの謝礼の扱いが国によって違うこと、そして精子バンクが商業的な事業として成り立っているかどうかが違うことが理由です。実費の弁償にとどめる国と、一定の対価を認める国があり、それが価格に反映されます。また、検査や凍結保管、輸送にかかる費用の構造も国ごとに異なります。海外バンクを検討するときは、精子そのものの価格だけでなく、輸送費、通関の手続き、国内の医療機関での保管や処置の費用まで合計して比べてください。
まとめ|制度の違いは「情報が残るか」の違い
国ごとの制度をひとことで整理すると、違いの本質は「将来、子どもが自分の出自にたどり着けるように、誰が情報を保管しているか」に尽きます。イギリスは公的機関が保管し、アメリカは事業者が保管し、日本は保管する仕組みそのものが定まっていません。
この違いは、いま日本で検討している方にとっては、次の行動として現れます。制度が代わりに記録を残してくれないのなら、自分で残しておく。提供者の情報、やりとりの記録、検査結果、取り交わした書面。これらを、お子さんが成人したあとも参照できる形で保管しておくことが、いまの日本で取りうるいちばん現実的な備えです。
海外の制度を知る意味は、羨ましがるためではありません。制度が用意してくれているものと、自分で用意しなければならないものを見分けるためです。その線引きが分かれば、いま何をすべきかもはっきりします。