精子提供について調べはじめると、AID、DI、ART、IUI、シリンジ法……と、見慣れない略語が次々に出てきます。しかもこれらは、書き手によって使い方が微妙に違ったり、まったく同じ意味の言葉が2つ並んでいたりします。意味があいまいなまま記事を読み進めると、「結局この方法は病院でやるのか、自宅でやるのか」といった肝心のところが分からなくなります。
この記事は、精子提供に関わる言葉を30語にしぼって、意味と使われる場面をまとめた辞典です。頭から順に読む必要はありません。分からない言葉が出てきたときに、その項目だけを引いてください。最後に一覧表も置いてあります。
いちばん混乱しやすいのはAIDとDIです。この2つは同じ意味で、第三者から提供された精子を使う人工授精を指します。AIDという表記がエイズ(AIDS)と紛らわしいことから、近年はDIという表記が使われることが増えました。どちらが出てきても同じものだと考えて構いません。
基本の5語|精子提供・ドナー・レシピエント・AID・DI
まず、どの記事を読むときにも前提になる5つの言葉から整理します。ここさえ押さえておけば、たいていの解説記事は読み進められます。
精子提供
妊娠を望む人が、パートナー以外の第三者から精子の提供を受け、妊娠を目指すこと全般を指す言葉です。日本語としては幅の広い言い方で、医療機関で行われるものも、個人間で行われるものも、どちらも「精子提供」と呼ばれます。そのため、記事を読むときには「これは病院の話なのか、個人間の話なのか」を意識して読み分ける必要があります。この区別を怠ると、費用も法的な扱いも大きく違うものを同じものとして受け取ってしまいます。
ドナー(donor)
精子を提供する側の人を指します。日本語では「提供者」と書かれることもあります。医療機関を通す場合は、その施設の基準にもとづいて選ばれ、感染症検査や問診を受けた人がドナーになります。個人間の場合は、当事者どうしの合意だけでドナーが決まるため、どんな検査を受けているか、どんな経緯で提供しているかは相手に直接確認するほかありません。
レシピエント(recipient)
提供を受ける側を指します。「被提供者」と書かれることもあります。医学的な文脈では、臓器移植や輸血でも同じ語が使われます。精子提供の記事では、ドナーとセットで登場することが多い言葉です。
AID(非配偶者間人工授精)
Artificial Insemination with Donor's semen の頭文字です。日本語では「非配偶者間人工授精」と訳されます。パートナー以外の第三者から提供された精子を、子宮内に注入して妊娠を目指す方法を指します。日本では、日本産科婦人科学会に登録された施設で実施されてきました。長らく無精子症など、パートナーの精子が使えない夫婦を対象として行われてきた歴史があります。
DI(提供精子人工授精)
Donor Insemination の略で、AIDと同じ内容を指します。前述のとおり、AIDという表記がAIDS(エイズ)と読み違えられやすいため、DIという表記が広まりました。医療機関の説明文や学会の資料では、DIを使うところとAIDを使うところが混在しています。新旧の資料が並んでいるだけで、内容の違いはありません。
方法の言葉|人工授精・IUI・シリンジ法・タイミング法
次に、「どうやって精子を届けるか」という方法をあらわす言葉です。ここが分かると、費用や身体的な負担の違いも理解しやすくなります。
人工授精
精子を採取し、器具を使って女性の体内に注入する方法の総称です。「人工」という言葉から高度な操作を想像しがちですが、実際には受精そのものは体の中で自然に起こります。体外で受精させる体外受精とは、この点が決定的に違います。
IUI(子宮内人工授精)
Intrauterine Insemination の略です。精子を洗浄・濃縮したうえで、細いカテーテルで子宮の中に直接注入します。現在、医療機関で行われる人工授精はほぼこの方法です。腟内に入れる場合と比べて、精子が卵子に近い場所からスタートできる点が特徴です。AIHでもAIDでも、実施方法としてはIUIが用いられます。
AIH(配偶者間人工授精)
Artificial Insemination with Husband's semen の略で、パートナーの精子を使う人工授精です。AIDと1文字しか違わないため読み飛ばしやすいのですが、精子の出どころがまったく違います。不妊治療の一般的なステップとして行われるのはこちらです。
シリンジ法
針のついていない注射器(シリンジ)を使い、採取した精液を自分で腟内に注入する方法です。自宅で行えること、医療機関を介さないことが特徴で、個人間の精子提供ではこの方法が選ばれることが多くあります。医療行為として行われるものではないため、器具の衛生管理も、タイミングの見きわめも、すべて当事者の責任で行うことになります。
タイミング法
本来は、排卵の時期に合わせて性交渉のタイミングを取る、不妊治療の初期段階を指す医学用語です。ところが個人間の精子提供の文脈では、「提供者と性交渉を行う方式」を指す言葉として使われていることがあります。同じ言葉が、まったく違う意味で使われている代表例です。記事を読むときは、どちらの意味で使われているかを必ず確認してください。
体外受精(IVF)と顕微授精(ICSI)
IVFはIn Vitro Fertilization、ICSIはIntracytoplasmic Sperm Injectionの略です。どちらも卵子を体外に取り出して受精させる方法で、IVFは精子と卵子を同じ容器に入れて自然な受精を待ち、ICSIは1個の精子を針で卵子に直接注入します。精子提供と組み合わせて行われることもありますが、人工授精と比べて身体的・経済的な負担は大きくなります。
精子と検査の言葉|精液検査・運動率・無精子症・凍結精子
ドナーの精液検査の結果を見る場面や、パートナーの検査結果を理解する場面で出てくる言葉です。数字そのものより、何を測っているのかを知っておくほうが役に立ちます。
精液検査
採取した精液について、量、精子の数、動き、形などを調べる検査です。世界保健機関(WHO)が検査の手順と評価の考え方をまとめたマニュアルを公開しており、多くの施設がこれを基準にしています。1回の結果だけで判断せず、複数回の結果を見るのが一般的です。体調や採取までの期間によって数値が変動するためです。
精子濃度・総精子数
精子濃度は精液1ミリリットルあたりの精子の数、総精子数は1回の精液全体に含まれる精子の数です。濃度が同じでも精液量が違えば総数は変わるため、両方を見る必要があります。
運動率・前進運動率
動いている精子の割合が運動率、そのうち前に向かって進む力のある精子の割合が前進運動率です。妊娠のしやすさに直結するのは後者です。精液は時間が経つほど運動率が下がるため、採取からどれだけ時間が経った検査かも重要になります。
正常形態率
頭部や尾部の形が整っている精子の割合です。評価の方法によって数値が変わりやすい項目でもあるため、施設をまたいで単純に比べることには向きません。
無精子症
精液中に精子が確認できない状態を指します。精子の通り道が詰まっている場合と、精子そのものが作られていない場合があり、原因によって対処法が変わります。AIDが選ばれる代表的な背景のひとつです。
TESE(精巣内精子採取術)
Testicular Sperm Extraction の略で、精巣から直接精子を採取する手術です。無精子症であっても、精巣の中に精子が見つかることがあります。第三者からの提供に進む前に検討される選択肢のひとつです。
凍結精子
採取した精子を超低温で保存したものです。保存しておけば、採取の日と使用の日を分けられるのが最大の利点です。精子バンクの仕組みはこの技術の上に成り立っています。解凍後は運動率が下がるため、凍結前の状態がよいものが選ばれます。
仕組みの言葉|精子バンク・匿名ドナー・オープンドナー
提供がどんな枠組みで行われているかをあらわす言葉です。国によって制度が違うため、海外の情報を読むときにとくに必要になります。
精子バンク
ドナーから採取した精子を凍結保存し、必要とする人に提供する組織です。海外では、ドナーの身長・学歴・血液型・声の録音などをカタログのように公開しているところもあります。日本国内では、医療機関が院内で管理する形が中心で、海外のような大規模な商業バンクは一般的ではありません。
匿名ドナー/オープンドナー
匿名ドナーは、生まれた子どもに対して身元が明かされないドナーです。オープンドナー(アイデンティティ・リリース・ドナーとも呼ばれます)は、子どもが一定の年齢に達したときに身元情報を開示することにあらかじめ同意しているドナーを指します。イギリスのように、法律で匿名の提供を認めなくなった国もあります。
ドナーシブリング
同じドナーから生まれた子どもどうしの関係を指す言葉です。日本語では「半きょうだい」と訳されることがあります。海外には、当事者が自発的に登録して互いを探せる仕組みがあります。
提供上限人数
1人のドナーから生まれる子どもの数に上限を設ける考え方です。近親者どうしが知らずに出会う可能性を減らすことなどが理由とされます。国によって上限の数え方も基準も異なります。
法律と権利の言葉|民法特例法・出自を知る権利・認知
精子提供でもっとも誤解が生まれやすい領域です。ここは言葉の定義を正確に押さえておく価値があります。
民法特例法(生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律)
令和2年法律第76号として成立した法律です。長い名前ですが、親子関係について定めているのは実質的に2か条だけです。第9条は、他人の卵子を用いた場合でも「出産した女性が母である」と定めています。第10条は、妻が夫の同意を得て第三者の精子で懐胎した子について、夫はその子が自分の子でないと否認することができないと定めています。
この法律が定めているのは法律婚の夫婦を前提とした親子関係です。提供者の要件、実施できる施設の条件、子どもが出自を知る仕組みといった論点は、この法律には含まれていません。「法律ができたから精子提供のルールが整った」と読むのは誤りです。
特定生殖補助医療
第三者から提供された精子や卵子を用いる生殖補助医療を指す言葉です。この分野のルールを定める「特定生殖補助医療に関する法律案」が2025年2月に参議院へ提出されましたが、実質的な審議に入らないまま廃案となりました。対象を法律婚の夫婦に限る内容などに対して、当事者団体や日本弁護士連合会から慎重な検討を求める意見が出されています。現時点で、この分野を包括的に規律する法律は成立していません。
出自を知る権利
提供で生まれた子どもが、自分がどのように生まれたか、遺伝上の親が誰かを知る権利を指します。イギリスやスウェーデンなど、法律で開示の仕組みを整えている国があります。日本では制度化されておらず、記録が残っているかどうかは実施した施設や当事者の判断に委ねられているのが現状です。
認知
婚姻関係にない男女の間に生まれた子について、父が自分の子であると法律上認める行為です。認知が行われると、親子関係が生じ、扶養や相続の関係も発生します。個人間の精子提供で「提供者が将来認知を求めてくる可能性」が論点になるのは、この制度があるためです。
嫡出推定
婚姻中に妻が妊娠した子は夫の子と推定される、という民法の仕組みです。前述の民法特例法第10条は、この推定に関わる場面で、夫が同意していた場合の否認を制限しています。
混同しやすい言葉の使い分け
意味が近いために取り違えられやすい組み合わせを、3つ挙げておきます。
| まぎらわしい組み合わせ | 違い | 読むときの注意 |
|---|---|---|
| AID と AIH | 精子が第三者のものか、パートナーのものか | 1文字違いなので読み飛ばしやすい |
| AID と DI | 同じ意味。表記が違うだけ | 古い資料はAID、新しい資料はDIが多い |
| タイミング法(医学用語)とタイミング法(個人間の用法) | 前者は排卵日に合わせる治療、後者は性交渉による提供 | 文脈でしか判別できない。要注意 |
とくに3つめは、当事者どうしのやりとりでも認識のずれが起こる場面です。「タイミング法でお願いします」と言われたときに、双方が同じものを想定しているとは限りません。方法を決めるときは、略語ではなく「腟内に注射器で注入する方法」「性交渉による方法」と、具体的な行為で確認することをおすすめします。
「無償」と「実費」も区別する
もうひとつ、金銭に関わる言葉も混同されがちです。「無償提供」は精子そのものに対価を払わないという意味で、交通費や検査費といった実費の負担がゼロという意味ではありません。総額でいくらかかるのかを確認するときは、この2つを分けて質問してください。
30語のかんたん一覧表
ここまでに出てきた言葉を、意味の短い説明とともに一覧にしました。読んでいる記事に分からない言葉が出てきたときは、ここを見てください。
| 用語 | 読み・略の元 | ひとことでいうと |
|---|---|---|
| 精子提供 | ― | 第三者から精子の提供を受けること全般 |
| ドナー | donor | 提供する側の人 |
| レシピエント | recipient | 提供を受ける側の人 |
| AID | Artificial Insemination with Donor's semen | 非配偶者間人工授精 |
| DI | Donor Insemination | AIDと同じ意味 |
| AIH | Artificial Insemination with Husband's semen | 配偶者間人工授精 |
| IUI | Intrauterine Insemination | 子宮内に注入する人工授精 |
| ART | Assisted Reproductive Technology | 生殖補助医療の総称 |
| IVF | In Vitro Fertilization | 体外受精 |
| ICSI | Intracytoplasmic Sperm Injection | 顕微授精 |
| シリンジ法 | syringe | 注射器で腟内に注入する自宅での方法 |
| タイミング法 | ― | 排卵日に合わせる方法(別の意味で使われることもある) |
| 排卵検査薬 | LH検査薬 | 尿中のホルモンから排卵の時期を推測する検査 |
| 基礎体温 | BBT | 毎朝同じ条件で測る体温。周期の把握に使う |
| 頸管粘液 | ― | 排卵が近づくと変化するおりもの |
| 着床 | ― | 受精卵が子宮内膜にくっつくこと |
| 精液検査 | ― | 精液の量・数・運動率・形を調べる検査 |
| 精子濃度 | ― | 精液1ミリリットルあたりの精子数 |
| 運動率 | ― | 動いている精子の割合 |
| 正常形態率 | ― | 形が整っている精子の割合 |
| 無精子症 | azoospermia | 精液中に精子が確認できない状態 |
| TESE | Testicular Sperm Extraction | 精巣から直接精子を採る手術 |
| 凍結精子 | ― | 超低温で保存した精子 |
| 精子バンク | sperm bank | 凍結精子を保管し提供する組織 |
| 匿名ドナー | ― | 身元が明かされないドナー |
| オープンドナー | identity-release donor | 将来の身元開示に同意しているドナー |
| ドナーシブリング | donor sibling | 同じドナーから生まれた子どうしの関係 |
| 民法特例法 | 令和2年法律第76号 | 提供で生まれた子の親子関係を定めた法律 |
| 特定生殖補助医療 | ― | 第三者の精子・卵子を用いる生殖補助医療 |
| 出自を知る権利 | ― | 生まれ方や遺伝上の親を知る権利 |
| 認知 | ― | 婚姻外の子を父が法律上自分の子と認めること |
| 嫡出推定 | 民法772条 | 婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する仕組み |
よくある質問
意味は同じで、表記の慣習が変わってきたためです。AIDはArtificial Insemination with Donor's semenの略ですが、この4文字がAIDS(エイズ)と読み違えられやすいという指摘があり、Donor Insemination を略したDIという表記が使われるようになりました。古い資料や、歴史的な経緯を説明している文章ではAIDが、比較的新しい医療機関の説明ではDIが使われている傾向があります。どちらが出てきても、第三者の精子を使う人工授精のことだと理解して問題ありません。
厳密には呼び分けたほうがよい場面が多くあります。医学の文脈で「人工授精」という場合、通常は医療機関で行われるIUI(子宮内人工授精)を指します。シリンジ法は腟内に注入するもので、医療者が関与せず、精子の洗浄や濃縮も行いません。「家庭内人工授精」という言い方が使われることもありますが、医療行為として行われるものではない点は押さえておいてください。病院で「人工授精を考えています」と伝えると、相手はIUIを想定します。
不妊治療のほうが広い言葉です。不妊治療には、排卵のタイミングを指導するだけの段階や、ホルモン剤による治療も含まれます。ARTは生殖補助医療の略で、体外受精や顕微授精のように、卵子や受精卵を体外で扱う技術を指すのが一般的です。人工授精をARTに含めるかどうかは資料によって扱いが分かれるため、統計の数字を読むときは、その資料がARTに何を含めているかを確認する必要があります。
正式名称は「生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律」ですが、実務では「民法特例法」や「生殖補助医療法」と呼ばれます。当サイトでは民法特例法と表記しています。なお、報道などで「ART法」と略されることもありますが、この呼び方は正式なものではないため、条文を調べるときは正式名称かe-Gov法令検索で確認してください。
言葉が分かったら、次に読む記事
用語の意味がつかめたら、次は自分の状況に近いテーマへ進んでください。読む順番の目安はこうです。
- 全体像から知りたい ── まず「精子提供とは何か」を読み、方法・費用・法律の輪郭をつかむ
- 方法を決めたい ── シリンジ法とタイミング法の比較記事で、身体的な接触とリスクの違いを確認する
- 法律が気になる ── 民法特例法と出自を知る権利の記事で、決まっている部分と決まっていない部分を切り分ける
- 医療機関を検討したい ── AIDの記事で、受け入れ条件と手続きを確認する
- 一人で産むことを考えている ── 選択的シングルマザーの記事から、産んだあとの生活設計まで見通す
この辞典は、記事を読んでいて手が止まったときに戻ってくる場所として使ってください。言葉の意味が分かるだけで、同じ記事から受け取れる情報の量は確実に増えます。そして、提供者や医療機関とやりとりをする段階になったら、略語ではなく具体的な行為の言葉で確認する。この習慣が、あとから「そういうつもりではなかった」というすれ違いを防いでくれます。