精子提供について調べていると、必ず「出自を知る権利」という言葉に行き当たります。名前から意味は想像がつくものの、具体的に何がどこまで保障されるのか、日本ではどうなっているのかは、調べても分かりにくいところです。
結論を先に言うと、日本にはこの権利を保障する制度がありません。法案は提出されましたが、審議に入らないまま廃案になりました。つまり現時点で、提供で生まれた子どもが自分のルーツをたどれるかどうかは、法律ではなく親と提供者が何を残したかにかかっています。
この記事では、そもそもこの権利がなぜ「権利」として語られるようになったのか、世界はどう制度化してきたのか、日本の議論はどこで止まっているのかを、順を追って整理します。
出自を知る権利とは、提供で生まれた人が「自分がどう生まれたか」と「遺伝上の親が誰か」を知る権利のことです。開示される情報には、生まれ方を知ること、身長や血液型などの非識別情報、氏名などの識別情報という3つのレベルがあり、どこまで保障するかが国ごとの制度の違いになっています。
出自を知る権利とは何か
この言葉は、大きく2つの内容を含んでいます。
1つめ|自分が提供によって生まれたことを知ること
意外に思われるかもしれませんが、これが最初の関門です。提供の事実を子どもに伝えていない家庭では、本人は自分が提供で生まれたことを知りません。知らなければ、情報を請求しようという発想も生まれません。制度をいくら整えても、告知が行われなければ機能しないのです。
2つめ|遺伝上の親についての情報を得ること
提供者がどんな人なのかを知ることです。ここには段階があり、身長や血液型といった本人を特定しない情報と、氏名や生年月日といった本人を特定できる情報に分けて考えるのが一般的です。どちらをどこまで開示するかが、制度設計の核心になります。
理由は主に2つあります。ひとつは医療上の理由です。遺伝性の疾患や家族の病歴が分かれば、自分の健康管理に役立ちます。もうひとつは、より根本的な理由です。自分がどこから来たのかを知ることは、自分が何者であるかという感覚に関わる。当事者が繰り返し語ってきたのは、こちらの側面でした。
なぜ「権利」として語られるようになったのか
提供の匿名性は、長いあいだ当然の前提でした。提供する側の負担を減らし、家族関係を複雑にしないためだと説明されてきたのです。その前提が揺らいだきっかけは、2つあります。
養子縁組の分野で積み重ねられた知見
養子として育った人のなかに、思春期以降、自分の出自について強い関心や葛藤を抱く人がいることが知られるようになりました。事実を隠されたまま育ち、あとから知った場合には、事実そのものより「隠されていた」ことのほうがつらいという声も多く上がりました。この知見が、提供で生まれた子どもにも当てはまるのではないかという問いにつながります。
当事者自身が声を上げた
提供で生まれた本人たちが、大人になって発言を始めたことが決定的でした。制度を作った側でも、提供を受けた側でもなく、その結果として生まれた人が「自分たちのことを勝手に決めないでほしい」と言い始めた。この当事者の登場が、匿名を前提とした制度を見直す最大の推進力になりました。
世界はどう制度化してきたか
制度化の流れは、おおむね北欧から始まり、ヨーロッパ全体、そして各国へと広がりました。
スウェーデン|1980年代に世界で最初に
スウェーデンは、提供で生まれた子どもが一定の年齢に達したときにドナーの身元を知ることができる仕組みを、1980年代に世界で初めて法律として整えました。以降の各国の制度は、この考え方の影響を強く受けています。
イギリス|2005年に匿名提供を廃止
イギリスでは2005年4月1日以降、匿名での提供ができなくなりました。この日以降の提供で生まれた人は、18歳になると公的機関に対してドナーの氏名、生年月日、出生地、最後に把握されている住所を請求できます。16歳からは、本人を特定しない範囲の情報を請求できます。
注目すべきは、この制度が公的機関が記録を保管することとセットで設計されている点です。個々の医療機関に任せるのではなく、国の機関が登録を一元管理する。だからこそ、18年後でも請求に応じられます。
共通する設計思想
制度を整えた国に共通するのは、次の3点です。
- 記録を長期にわたって保管する主体を法律で決めている
- 子どもが請求できる年齢と、開示される情報の範囲を法律で定めている
- 制度変更より前の提供にはさかのぼって適用しない(できない)
3つめは見落とされがちですが重要です。法律を変えても、それ以前に匿名を約束して提供した人との関係を一方的に変えることはできません。そのため制度が変わっても、それ以前に生まれた人の状況は変わらないままになります。
日本の現状|制度がないとはどういうことか
日本には、出自を知る権利を保障する制度がありません。これが具体的に何を意味するのかを整理します。
記録を保管する主体が決まっていない
提供の記録を誰が、どれだけの期間保管するのかを定めた法律がありません。医療機関を通じた場合は診療録が残りますが、保管期間には限りがあります。個人間の提供であれば、当事者が残したもの以外に記録は存在しません。
請求する先がない
仮にお子さんが将来「知りたい」と言ったとしても、請求する窓口がありません。イギリスのような公的機関が存在しないためです。実施した医療機関に問い合わせるしかなく、開示するかどうかはその施設の判断になります。
2020年の法律は、この論点を扱っていない
2020年に成立した民法の特例法は、提供で生まれた子の親子関係を定めたものです。出産した女性が母であること、夫が同意していた場合に親子関係を否認できないこと。この2点に限られており、出自を知る仕組みは含まれていません。
廃案になった法案は何を定めようとしていたか
第三者の精子・卵子を用いる医療のルールを定める「特定生殖補助医療に関する法律案」が、2025年2月5日に参議院へ提出されました。自民・公明・日本維新の会・国民民主の4会派によるものです。
法案の骨格
報じられている内容によると、法案は次のような仕組みを想定していました。
| 項目 | 法案の内容 |
|---|---|
| 記録の保管 | 国立成育医療研究センターが100年間保管する |
| 請求できる年齢 | 18歳以上 |
| 非識別情報 | 身長・血液型・年齢などは提供者の同意なしに開示 |
| 識別情報 | 開示請求の段階で提供者の同意が必要 |
| 対象 | 法律婚の夫婦に限定 |
この法案は成立しなかった
法案は提出されたものの、実質的な審議に入らないまま廃案となりました。したがって現在も、この分野を包括的に規律する法律は存在しません。
法案に向けられた批判の中身
この法案には、当事者団体や法律家から強い異論が出されました。批判の中心は2点です。
1. 識別情報の開示が提供者の意向に左右される
法案では、氏名など提供者を特定できる情報の開示には、請求の段階で提供者の同意が必要とされていました。つまり提供者が拒否すれば、子どもは名前を知ることができません。これでは権利として保障されたことにならないという指摘です。当事者からは「遺伝上の親が誰かは、これでは分からない」という声が上がりました。
イギリスの制度と比べると違いがはっきりします。イギリスでは、提供の時点で「将来子どもに身元が開示される」ことに同意した人だけがドナーになれます。日本の法案は、提供の時点ではなく請求の時点で同意を求める設計でした。この差は決定的です。
2. 対象が法律婚の夫婦に限られている
法案は、対象を法律婚の夫婦に限定していました。事実婚のカップル、同性のカップル、単身の女性は対象外となります。これに対して、医療へのアクセスを制限し差別を生むのではないかという批判が出されました。日本弁護士連合会も、慎重な審議を求める会長声明を出しています。
仮に法案が成立していたとしても、単身の女性や同性カップルが提供を受ける場合は制度の外に置かれたということです。制度の対象外である以上、記録の保管も情報の開示も適用されません。当サイトを読まれている方の多くは、まさにこの「制度の外」に位置しています。制度の議論を追うときは、それが自分に適用される話かどうかを確認してください。
制度がないなかで、当事者にできること
制度を待つという選択肢は、現実的ではありません。法案が廃案になった経緯を見れば、いつ整うかを予測することはできないからです。できることは3つあります。
1. 記録を自分で残す
公的機関が保管してくれないなら、自分で保管するしかありません。提供者の氏名、生年月日、連絡先、面談の記録、検査結果の写し、取り交わした書面。これらを、お子さんが成人したあとも参照できる形で残してください。
2. 提供者に「将来の連絡」について確認しておく
18年後に連絡が取れるかどうかは、提供者との関係の作り方で変わります。「連絡先が変わったら知らせてもらえますか」「お子さんが将来会いたいと言ったらどうお考えですか」。この2つを、提供を受ける前に確認しておいてください。答えの内容だけでなく、答え方も判断材料になります。
3. 告知の方針を早めに考えておく
記録を残しても、お子さんが自分の生まれ方を知らなければ意味がありません。いつ、どう伝えるか。方針を早い段階で持っておくことが、結果的に記録を活かすことにつながります。
よくある質問
待つことはおすすめしません。理由は2つあります。ひとつは、制度がいつ整うか予測できないことです。20年以上議論が続き、ようやく提出された法案も審議入りしないまま廃案となりました。もうひとつは、制度ができても過去にさかのぼって適用されない可能性が高いことです。イギリスでも、2005年の法改正はそれ以前の提供には適用されませんでした。つまり、制度ができてから提供を受けた人だけが対象になる可能性があります。いま検討している方にとって現実的なのは、制度がない前提で自分の手元に記録を残すことです。
診療の記録としては残りますが、それが18年後にお子さんに開示されるかどうかは別問題です。診療録には法令上の保存期間があり、それを超えて保管するかは施設の判断になります。また、提供者の情報をどこまで記録しているか、開示に応じる方針かどうかも施設によって異なります。医療機関を検討する際は、初診の段階で「提供者に関してどのような情報が保管されるのか」「お子さんが将来知りたいと言った場合にどう対応されるのか」を必ず確認してください。この質問への回答は、その施設の姿勢を測る材料にもなります。
提供者の意思は尊重されるべきですが、そのうえで確認しておきたいことがあります。「完全に匿名」と「情報だけは残す」は違うということです。今後いっさい連絡を取らないという合意をしたうえで、氏名や生年月日、健康に関する情報だけは書面に残しておく、という形は取りうる選択肢です。将来お子さんに伝えるかどうかはあなたが判断すればよく、記録があること自体が選択肢を残します。逆に、記録を一切残さないという選択をした場合、あとから取り戻すことはできません。この点を提供者にも説明したうえで、話し合ってみてください。
生まれてきた子ども本人の権利として語られます。ここが、この議論の難しいところです。提供を受ける親でも、提供する側でもなく、まだ生まれていない人の権利について、周囲の大人が決めることになるからです。制度をめぐる議論で当事者団体が繰り返し主張してきたのも、この点でした。決定の当事者と、その結果を引き受ける当事者が別の人であるという構造は、精子提供という選択が持つ本質的な難しさのひとつです。これから検討される方には、この視点を頭の片隅に置いていただけたらと思います。
まとめ|法律がないなら、あなたの記録が制度の代わりになる
出自を知る権利とは、提供で生まれた人が自分のルーツを知る権利です。世界ではスウェーデンやイギリスをはじめ、記録の保管と開示の仕組みを法律で定める国が増えてきました。日本ではこの権利を保障する制度がなく、それを定めようとした法案も、識別情報の開示が提供者の意向に左右されること、対象が法律婚の夫婦に限られることへの批判を受けたまま廃案となりました。
制度がないという事実は、変えられません。しかしそれは「何もできない」という意味ではありません。提供者の情報を残す。連絡が取れる関係を保つ。お子さんに伝える準備をしておく。この3つは、法律がなくても今日から始められます。
18年後、お子さんが「自分はどうやって生まれたの」と尋ねたとき、答えられるものが手元にあるかどうか。それを決めるのは制度ではなく、いまのあなたの記録です。